自分の存在価値、私は何のために生きているの?
「自分の存在価値、私は何のために生きているの?」と
私は小学校の時から悩み苦しんでいました。
実行に移す勇気はありませんでしたが、死にたいと思ったことは数知れず。
その原因は今考えればたいしたことはないのです。勉強、テスト、宿題、いじめ等学生に共通する悩みなのです。しかしその当時はそれらのことが苦しく真剣でした。あれから30年という時が解決してくれたのです。
皆さんの今の苦しみも生きていれば必ず時が解決してくれる日がやってきます。
解決する手立ては諦めることです。例えば「あの時勉強しておけば良かった」と悔やみ続けていれば苦しみはずーっと続いていきますが、「あの時は勉強に興味を持てなかったからしょうがない。恥をかくのも人生。勉強が出来てそれを鼻にかけもっと性格が悪くなっていたと思えば出来なくてよかった」と思えれば苦しみから解放されるのです。きかたを否定しているからです。
そして一歩進めることができるなら今から勉強を始めるのです。決して遅くはありません。ところがそれを子供に「自分みたいになってもらいたくないから」と子供に押し付ける方がいますが、それでは自分の苦しみを解決するどころか、逆効果です。なぜなら自分の生
私は家内に出会い、子供たちを授かり、今があります。自分自身の人生の意味は、子孫をつないでいく事だったのだと言えます。その人生の中で苦しいこと、辛いことを経験させていただき、自分の魂を磨いているのです。
その貴重な体験が出来るこの世界に新しい命を誕生させ、彼らがその経験を通して徳を積むために、私は生きているのです。
決してお金儲けをして贅沢な暮らしをするために生まれてきたのではありません。入ってくるものを拒むことはありませんが、それを世の中の為に正しく使っていくことです。わたしは先人たちが守ってきた秋月院の法統を絶やすことなく次の世代に伝えるために皆さんから預かった浄財を使っていくことが使命です。
しかしそのために、自分さえ良ければ良いとむさぼってしまっては本末転倒でなのです。
贅沢はできなくても、日々家族が食べていければ幸せなのです。65年前の時代はそれすら叶わなかったのですから、今が幸せと思わなければ、過去の方に申し訳が立ちません。
お金持ちになった時、おごり、おぼれることなく正しく生きることが出来るかが、人生の最終試験なのかもしれません。
人はおぼれやすいものです。もうちょっと欲しいと思うぐらいが幸せなのです。
今の世は、お金を使っている人よりお金に使われている人のほうが多いと思います。スキーの経験がある方なら分かってもらえるのではと思うのですが、スキー(板)で滑っている人と、スキーに滑らされている人の違いです。
お金は使うもので、使われるものではありません。ないものを欲しがり無理をしてはいけません。ないのも貴重な人生経験です。必ずそこには学びがあります。ないことに意味があるのです。
暑い日が続きますがご自愛下さい。
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